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イマジン ジョン・レノン(1988年)

イマジン ジョン・レノン(1988年)

の死後に制作されたドキュメンタリー映像で、日本では劇場公開された。オノ・ヨーコをはじめとする関係者が、貴重なコメントを寄せている。

ジョンと最初の妻シンシアとは、のデビュー前後で結婚。彼女はツアーにも帯同していたが、結婚していることは伏せられていた。ビートルズの活動が多忙を極めるに連れて2人の距離は離れるようになり、やがて離婚。ヨーコの存在ももちろんあったはずだが、それでなくても婚姻関係を続けるのは困難だったとされている。

シンシアとの息子、ジュリアン。親の愛を知らないジョンは、ジュリアンにどう接していいかわからなかったそうだ。ポールをはじめとするビートルズのメンバーもジュリアンに接するようにし、そして生まれたのが『Hey! Jude』なのは有名な話。ジョンはヨーコと暮らすようになってからジュリアンを呼ぶようになり、何度か会っているとのこと。

ヨーコとの息子、ショーン。公開時は13歳で、さすがに幼さが残る。肩パットの入ったジャケットを着て、5歳までの記憶を淡々と話している。家族団らんの映像には、毎年訪れていたという軽井沢も含まれているだろう。この時点では、その後オルタナティブな音楽を手掛けるアーティストになろうとは、思ってもみなかった。

『ジョンの魂』『イマジン』をレコーディングしたのは、イギリスの広大な敷地の中にある白い邸宅にて。アスコットという、から西に行ったところに位置している。、クラウス・フォアマンらの姿もあり、ポールとの確執にも触れられていて、こうした映像が残っているのは、今にしてみればとても貴重だ。

その後ジョンとヨーコは、どことなくリバプールに似ているというニューヨークに移り住み、ダコタハウスで暮らす。ベトナム反戦を訴えたり、ヨーコと別居しジョンが一時期サンフランシスコに住んでいた、いわゆる「失われた週末」については、さらりと流されている(「ジョン・レノン、ニューヨーク」では、もろに切り込んでいる)。1980年のジョンの死とその状況についての描写は、かなり生々しい。

劇中で流れるソロやビートルズの演奏シーンは、そのほとんどがジョンが書いた曲、もしくはカヴァーでもジョンがリードヴォーカルを取っている曲だ。当然か。

この映像、当時も観ていたのだが、そのときはさして貴重とも思わなかった。ジョンの映像が流れるのは、ふつうで当たり前のことだと思っていた。しかし、当時のイギリスやアメリカの情勢がどんなだったか、アーティストとしてジョンがどう生きたかに着目して観ると、とても興味深い。なぜジョンにラヴ&ピースのイメージがついてしまったのかというのも、わかる気がする。

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