*

’85 HIDEKI Special in Budokan – for 50 songs –

公開日: : 西城秀樹

'85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -

西城秀樹が、1985年1月にシングル50曲を歌うライヴを武道館で敢行。その映像を観た。

秀樹のシングルジャケットが飛び交うオープニングを経て、映像はステージに切り替わる。カメラはほぼ秀樹だけをフォーカスし、客席もバックバンドもほとんど捉えることがなかった。なので、バンドが何人いたのかもわからず。曲によってはダンサーが登場し、秀樹のサイドで踊っていた。

秀樹はMCも豊富で、広島から上京し本名ではなく西城秀樹としてやっていくと覚悟を決めたことなどを、切々と語っていた。クライマックス直前の勢いづけのとき以外は、ほとんど丁寧語で話していた。

ステージ上に装飾は見当たらなかったが、アリーナの真ん中は移動式の花道になっていて、曲により秀樹はそこまで足を進めて熱唱した。こんにち、アリーナやドーム会場ではセンターステージを設置するアーティストもいるが、八角形型の武道館でアリーナの中にミニステージを作るのは、当時だけでなく今でも珍しい。

中盤では、秋野暢子と森光子をゲストとしてステージに招き入れた。秋野のときは、椅子に座ってもらい4曲を歌った。森光子は、「東京のお母さん」と紹介していた。このとき、後方正面に革ジャン革パンツにサングラスのギタリストが何度かフレームに入ってきた。後で調べると、なんとSHŌGUNの芳野藤丸だった。SHŌGUNよりも前から、バンドとして秀樹を支え続けていたそうだ。

セットリストは、シングルをリリース順にではなくランダムに組んでいて、ライヴの流れを組み立てることを重視したからだろう。『炎』はクライマックスに配してもおかしくないエモーショナルな曲だが、ここでは序盤の景気づけとして機能していた。オフコースとの共作『眠れぬ夜』は、懐かしかった。

メドレー形式で、10曲ほどをたて続けに歌うパートが複数回あった。個人的には80年代前半の曲をテレビで親しんでいたこともあり、『リトルガール』 『セクシー・ガール』『センチメンタル・ガール』が連続で歌われたのには納得。『南十字星』は、メドレーではなくフルコーラスで観たかった。

50枚目のシングル『一万光年の愛』を経て、いよいよ後半クライマックスへ。『ギャランドゥ』『傷だらけのローラ』『ブルースカイブルー』をこの曲面で歌うのは納得だが、『ジプシー』が組み込まれていたのは嬉しかった。

アンコールでは、必然の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』が放たれ、これでおしまいかと思いきや、なんと締めは『I SHALL BE RELEASED』。ボブ・ディランの、いやザ・バンドのと言えばいいのか、とにかく観たときはびっくりした。もともと秀樹は洋楽カヴァーを積極的にやってきた人で、シングルでは『抱きしめてジルバ』『ナイト・ゲーム』があり、特に後者は秀樹のオリジナルと思えるハマりようだ。

『I SHALL BE RELEASED』はこのときが初出ではなく、過去のツアーで既に歌われていた。歌詞は日本語訳で、その内容は秀樹の心情を吐露しているかのようだった。というわけで、50曲プラス1曲でライヴは終了した。

テレビの歌番組やバラエティなどでは何度も観てきたが、ライヴとなるとまるで別だった。本人は、求められるアイドル像に応えつつ、ステージをアーティストとして自身が表現したいことを発揮する場にしていたのだろう。もし闘病がなかったら、今でも現役で歌い続けていたにちがいない。

関連記事

西城秀樹さんはキング・クリムゾン『エピタフ(Epitaph)』をカヴァーしていた

一部ネット上で話題になっているが、先日亡くなった西城秀樹さんは、ライヴでは洋楽アーティストの

記事を読む

アナザーストーリーズ 運命の分岐点「西城秀樹という“革命”〜アイドル文化を変えた情熱〜」

BSで放送されている「アナザーストーリーズ」という番組で、3月に西城秀樹を取り扱ったことがあ

記事を読む

西城秀樹さん死去

西城秀樹さんが16日に亡くなられた。63歳だった。死因は急性心不全だった。 郷ひろみ、

記事を読む

ブロウアップ ヒデキ

西城秀樹が1975年夏に行った全国ツアーを記録した映像を観た。同年にテレビ放送され、秋に劇場

記事を読む

  • 全て開く | 全て閉じる
PAGE TOP ↑