Led Zeppelin
=私的ツェッペリン観=


 

 戦国武将の伊達政宗は、自分があと20年早く生まれていれば、と悔やんだという。当時の日本の中心は京都であり、奥州伊達藩は京都からはあまりにも遠かった。政宗は京都に上る前に、まず東北を制覇しなくてはならなかった。そして政宗が東北を制したとき、既に天下は豊臣秀吉の手によって収まりつつあったのである。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は江戸に幕府を開いた。政宗は徳川の家臣になるか、それとも反旗を翻すかの択一を強いられ、結局服従する道を選んだ。政宗が天下取りの戦いに加わるには、20年遅かったということなのだ。


























 60's後半は、"ニュー・ロック""アート・ロック"という、どこかあいまいなキーワードの中に、来るべき70'sという時代を映す革新的なロックンロール、ロックスピリットを待ち望む空気に包まれていたという。当時、最初にそれを担う形になったのはクリームだった。エリック・クラプトンの超絶ギタープレイは"神"と呼ばれ、3人3様のプレイのぶつかりあいが相乗効果を生み、前述のキーワードをまさに体現しているようにも思えた。しかし、このトリオはジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーのエゴのぶつかりによってわずか2年足らずで空中分解してしまった。その頃、ヤードバーズのギタリストを務めていたジェイムス・パトリック・ペイジは、もはやヤードバーズが来るべき時代に生き延びる可能性が薄いことを察知し、次の一手を考えていた。




「鉛の飛行船ってのはどうだい?どうせ飛べっこないからさ。」




 セッションのさなか、ザ・フーのキース・ムーンが粋なジョークを利かせていたのを覚えていたジミー・ペイジが、そっくり新しいバンド名として拝借した形になった。鉛="Lead"は、アメリカ人がリード(=導く)と発音しないようにaを取って"Led"とした。ペイジは新聞にメンバー募集の広告を出し、それを読んだ夫人にせかされる形でジョン・ポール・ジョーンズがメンバー入りした。無名バンドだったバンド・オブ・ジョイからロバート・アンソニー・プラントとジョン・ヘンリー・ボーナムを迎え入れ、契約の関係上数回"ニュー・ヤードバーズ"の名でプレイした後、"鉛の飛行船"はフライトした。

























 以後、1980年に起こった悲劇がバンドを引き裂くまで、"鉛の飛行船"はばく進し続けた。レッド・ツェッペリンは間違いなく70'sのロックの王者的存在だった。その圧倒的な演奏力から、凝ったテクニックから、ダブル/トリプルミーニングを利かせた詞から、アルバムジャケットのディテイルから、メンバー4人の音楽に賭ける熱き情熱から、毎夜毎夜アドリブをきかせてみせるステージから、何もかもが素晴らしかった。表現者たるもの、これぐらいやってみせて当たり前、という貫禄すら感じることができた。

























 私も、あと20年早く生まれたかった、と思うことがときどきある。私は生まれてから高校卒業までを秋田で過ごし、大学進学を機に上京した。これがそのまま20年ほど早ければ、レッド・ツェッペリンの武道館公演を体験できていたかもしれない、衝撃のライヴを体感することができていたかもしれない、伝説の目撃者となることができていたかもしれない・・・。という、もはや考えてもどうしようもない夢想を抱くことが今でもあるのだ。







(99.12.2.)
















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